織部焼
桃山の茶陶
鎌倉時代にはじまった喫茶の習慣は、その後さまざまな形に発展し、流行し、多くの人々に受けいれられて浸透してきました。
村田珠光(1423〜1502)にはじまるとされる「わび茶」の流行は、桃山時代になると、爆発的といえるほどの展開を見せ、
日本人の美意識を根底からくつがえしてしまったとさえいえます。とくに、やきものの世界に与えた影響は、
革命的で空前絶後といえるほどのものでした。
織 部
茶人たちは、茶会に出席するたびに丹念に記録を残しました。茶会記とよばれるもので、茶会が催された日時、主催者、
茶室のようすをはじめ、茶道具のひとつひとつや、出された料理とその器までくわしく書かれているのです。
織田信長が室町幕府を倒して京都に上ってきた1573年11月、妙覚寺で聞かれた茶会の記録を津田宗及が残しています。
これによると、懐石料理に使われた器のほとんどが土器で、これに金箔が貼られてあり、なかには漆で絵の描かれたものもありました。
千利休の主催する茶会で使われた懐石の食器の多くは漆器だったようです。ところが、古田織部の茶会には、陶器が多用されました。
古田織部による茶の改革がおこなわれたのです。
織部とよばれているやきものは、志野、黄瀬戸、瀬戸黒と交替するようにあらわれ、桃山時代の後半から江戸時代初期の約三〇年間につくられた
、きわめて異色な、奇抜、斬新な陶器です。その特徴は、大胆なデザインにあるといえます。
角皿、角鉢、変形の鉢など片側または両側に斜めに緑釉を配し、余白の白い部分に鉄絵で不思議な図柄がのびのびと描いてあります。
伊万里や京焼が発生する以前に、日本ではじめて派手さと躍動感を誇った陶器といえます。
文禄・慶長の役以前、唐津(岸岳)にはすでに朝鮮系の割竹式登り窯があり、李朝風の陶器づくりがおこなわれていたことは、
すでにお話ししました。1686年に発刊され「瀬戸大窯焼物並に唐津窯取立由来記」という書物に、「唐津から美濃へ来ていた森一左衛門という浪人が、
美濃の陶工加藤景延の窯を見て、熱効率の悪さを指摘して、唐津の窯を見学するよう誘った。加藤景廷はさっそく唐津に赴いて登り窯を実見して戻り、
美濃で最初の連房式登り窯(元屋敷窯)を築いた」ということが記されています。岐阜県多治見市の郊外にある元屋敷窯は、
1605年ごろに築かれたと推定されています。
この窯は、それまで使われていた穴窯とちかって、熱効率がよすぎて、志野釉はツルツルテカテカに熔けて、
雪のようなふわっとした温かい不透明袖にはならなくなってしまいました。この窯で織部の生産がはじめられたのです。
織部焼は、古田織部が指導してつくらせたという伝説がありますが、確かな証拠はありません。むしろ彼が好んで使ったことで
「織部好み」といわれたことから、織部焼とよばれるようになったのだと思われます。
織部焼の種類
1、織部黒・黒織部
織部黒・・・沓形の黒無地茶碗です。造形は激しく大振りです。茶色もあります。
黒織部・・・黒に白窓をつくり絵を描いた織部。
初期の黒織部は窓をつけず黒地を掻き落として絵を描いた大振りの激しい造詣の沓形(くつわ)茶碗である。
2、青織部・・・・・緑釉と長石(白色)をかけ分け。白い部分に鉄絵を施した織部焼。
3、総織部・・・緑釉を一面にかけた織部。模様は釘彫りで行われる。
4、鳴海織部・・・赤土と白土の2種類を張り合わせたたら(板)にして型はめ造形を行い、白い土には緑釉をかけ、
赤い土には長石の白泥で絵を描き鉄で縁ど りする。赤土は明 るい橙色又は鼠色に発色する。
5、赤織部・・・ 赤土を用い、白泥で化粧し、鉄釉で模様を縁どりする織部。
6、弥七田織部・・桃山最後の(後期)の織部。繊細なデザインが特徴。綺麗さびへの移行期の織部焼。
織部焼の器種・・・・織部の茶碗、織部の鉢(手つき鉢・平鉢・蓋物)、
織部向付(平向付・筒向付)織部徳利・織部水注。織部花生・織部香炉・織部香合・織部茶入、
織部パイプ。ろうそく立
志 野
桃山時代に、茶碗や水指など茶器として使われた、「志野」とよばれる長石釉の施された白い陶器があります。
志野がいつごろ、どこでつくられたのかは、長いあいだわかりませんでした。瀬戸でつくられたらしいと言われていたこともありました。
1930(昭和5)年、陶芸家荒川豊蔵1894〜1985)が美濃の大萱というところで、志野の破片を見つけたことから、
志野が美濃で焼かれていたことがわかったのです。
志野の語源についてもいろいろな説がありますが、香道の志野宗信という人が愛用していた白い茶碗を「志野の茶碗」とよんだことから
名づけられたとする説が有力です。志野の名称は1570年ごろの記録に初めてあらわれますが、それ以前に「白天目」とよばれている茶碗があります。
この茶碗の形は天目形で、白色不透明の長石柚が施されていて、後の志野釉とよく似ています。長石釉を使ってやきものを白く見せる工夫をしたものは、
ほかに例がありません。
志野は、1550年から1600年ごろまでのわずか50年ほどの間だけつくられ、「織部」が作られるようになると、突然途絶えてしまいました。
志野の茶碗も、楽焼と同様に円筒形が主流です。ロクロを使って形をつくりながら、なぜこのような不自然な形を選んだのか不思議です。
志野には、無地志野、絵志野、ねずみ志野、赤志野、紅志野、練り込み志野などがあります。
黄瀬戸
古瀬戸の灰釉の流れを受け継いだと思われる、黄土色の陶器があります。もともとは青磁の写しをつくろうとしたのではないのかと思われます。
鉄分が三パーセント程度含まれた灰柚をはとこし、銅で緑色を配してあり、還元焼成すれば辰砂を散らした飛び青磁になるはずです。
誤って酸化焼成になってしまったのかもしれませんが、十分美しく、茶人に喜ばれたと思われます。志野と同じ窯で焼かれていたようですが、
同じ工房でつくられたとは思えないほど、端正で正確な形づくりがなされているのです。志野の廃絶と同時につくられなくなりましたが、
緑色の釉薬は織部に引き継がれました。
瀬戸黒
瀬戸天目の流れをくむ、鉄釉をほどこした茶碗です。形は、楽焼や志野と同様の筒形で,
やや深めです。高台の削り方は志野よりもさらに荒っぽく、崩れた感じのものが多いです。
鉄釉は急冷すると真っ黒に発色し、徐々に冷却すると褐色になります。瀬戸黒は焼成中の窯から、はさみ出して急冷させて黒色に発色させたもので、
どれにもはさんだ痕が残っています。瀬戸黒の円筒形は、はさみやすくするための工夫なのかもしれません。